「tokyo.sora」を久しぶりに見た。夜眠れなくて、ふと、この映画の断片を思い出したのだ(このDVDは何年か前に買って持っている)。深夜、映画を見ている最中も見終わったあとも、初めて見たときと同じような、気持ちになった。普通の風景が特別のように感じられるとき、登場人物たちの素敵な性格、この映画の中で唯一すんなり受け入れられない展開(ユキちゃんの展開の仕方には、いつも違う方法を考えてしまう)。登場人物たちは一様に、淋しさや人恋しさを持ち合わせていて、ただそれとどう向き合っていくかが、当たり前だけれどばらばらで、強いとか弱いとかの次元の話でなく、生きているからそうなる(単純だから複雑になる)というような構造が、物語の外側の自分たちと、極限にまで近い形で映像としてなっている。そう、映画と言うよりは映像と言った方が合っているかも知れない。<br><br>この中で、登場人物それぞれは、全員が明確な形で関係を持たないのだけれど、ほんのすこしずつ、たとえば、同じ電車の中に居合わせたり、同じ道路を時間をずらして歩いていたり、という繋がりがある。これは言わば、自分自身には見えない世界を切り取って(あるいは違う方向から)見ているのだから、ドラマチックに思えるが、実際のところ、自分の世界でもじゅうぶんに起こりうることで、現に起こっていると思う。世界はひとつではなく、いくつか存在しているのだけれど、その、それぞれの摩擦というか、接触の反動に、何か(こうとしか言いようがないこと)を期待せずにはいられない。
2009年6月28日
2009年6月26日
2009年6月24日
2009年6月21日
2009年6月20日
日記1
あの雲が何色でできているか知っている僕に、友達が居ない
可愛い女の子が隣りに立つ僕に、友達が居ない
健康な僕に、友達が居ない
ロスコの生まれ変わりの僕に、友達が居ない
歯並びが悪い僕に、友達が居ない
頭の中で人を殴る僕に、友達が居ない
テレビを見ない僕に、友達が居ない
人見知りの僕に、友達が居ない
雨が降るときが分かる僕に、友達が居ない
足が速い僕に、友達が居ない
動物と話せる僕に、友達が居ない
彼女が恋をしていない僕に、友達が居ない
本を読むのが遅い僕に、友達が居ない
今インスタントラーメンを食べる僕に、友達が居ない
お金がない僕に、友達が居ない
変な声の僕に、友達が居ない
卵焼きが世界一うまい僕に、友達が居ない
哀しくない僕に、友達が居ない
楽しくない僕に、友達が居ない
コーヒーばかり飲む僕に、友達が居ない
部屋を選ぶセンスがない僕に、友達が居ない
日記を書く僕に、友達が居ない
横になる僕に、
日記2
最近は、見るテレビは金曜ロードショー(日本テレビ)か、土曜プレミアム(フジテレビ)か、日曜洋画劇場(テレビ朝日)だけ。今日の土曜プレミアムでやっていた「トランスフォーマー」は、途中から見たのだけれど、何と言うのかな、いちいち騒々しいというか、登場人物たちの声の大きさや話し方が、ひどく不快だった。途中から見た、というのはおそらくあまり関係なく、たとえば最初からあの映画を見ていたとしても、それは変わらないと思う。そして日本語吹き替え版だったことも、関係ない気がする。単に自分の肌に合わなかったということなのだろうけれど、何なんだろう、あの不快感は。あれは映画じゃない。あと、主人公の傍にいた女の子(ヒロインかな)が、何ともよくなかった。笑っている顔も、困った顔も、誘っている顔も、全部同じに見えた。表情がないというか…。
日記3
自分にとって声というのは大切である。自分の声にコンプレックスがあるというのが大きな理由であるけれど、「いい声」の人は、うらやましいというか、自分のものにしたくなる(その声を)。声優で言うと、星野貴紀さんのような低く深いような声もいいし、櫻井孝宏さんのような固く冷たい感じの声もいい。女性だと、麻生久美子さんのような鈴を転がしたように響く声がたまらなくいいです。他にもたくさんいい声の人は居ます。というか、大抵の人は、自分よりいい声。声好きが嵩じて、声を使って、何か作品とかできないかなあと、最近ぼんやり考えています。
日記4
頭が痛いのは気のせいではない。
あの雲が何色でできているか知っている僕に、友達が居ない
可愛い女の子が隣りに立つ僕に、友達が居ない
健康な僕に、友達が居ない
ロスコの生まれ変わりの僕に、友達が居ない
歯並びが悪い僕に、友達が居ない
頭の中で人を殴る僕に、友達が居ない
テレビを見ない僕に、友達が居ない
人見知りの僕に、友達が居ない
雨が降るときが分かる僕に、友達が居ない
足が速い僕に、友達が居ない
動物と話せる僕に、友達が居ない
彼女が恋をしていない僕に、友達が居ない
本を読むのが遅い僕に、友達が居ない
今インスタントラーメンを食べる僕に、友達が居ない
お金がない僕に、友達が居ない
変な声の僕に、友達が居ない
卵焼きが世界一うまい僕に、友達が居ない
哀しくない僕に、友達が居ない
楽しくない僕に、友達が居ない
コーヒーばかり飲む僕に、友達が居ない
部屋を選ぶセンスがない僕に、友達が居ない
日記を書く僕に、友達が居ない
横になる僕に、
日記2
最近は、見るテレビは金曜ロードショー(日本テレビ)か、土曜プレミアム(フジテレビ)か、日曜洋画劇場(テレビ朝日)だけ。今日の土曜プレミアムでやっていた「トランスフォーマー」は、途中から見たのだけれど、何と言うのかな、いちいち騒々しいというか、登場人物たちの声の大きさや話し方が、ひどく不快だった。途中から見た、というのはおそらくあまり関係なく、たとえば最初からあの映画を見ていたとしても、それは変わらないと思う。そして日本語吹き替え版だったことも、関係ない気がする。単に自分の肌に合わなかったということなのだろうけれど、何なんだろう、あの不快感は。あれは映画じゃない。あと、主人公の傍にいた女の子(ヒロインかな)が、何ともよくなかった。笑っている顔も、困った顔も、誘っている顔も、全部同じに見えた。表情がないというか…。
日記3
自分にとって声というのは大切である。自分の声にコンプレックスがあるというのが大きな理由であるけれど、「いい声」の人は、うらやましいというか、自分のものにしたくなる(その声を)。声優で言うと、星野貴紀さんのような低く深いような声もいいし、櫻井孝宏さんのような固く冷たい感じの声もいい。女性だと、麻生久美子さんのような鈴を転がしたように響く声がたまらなくいいです。他にもたくさんいい声の人は居ます。というか、大抵の人は、自分よりいい声。声好きが嵩じて、声を使って、何か作品とかできないかなあと、最近ぼんやり考えています。
日記4
頭が痛いのは気のせいではない。
2009年6月19日
引っ越しをしたいなあと、もう何年も前から思っている。そう思うたびに、「お金がなくてできない。」と思う。でも実際は、お金はどうにかなるものだ。労働すればいいのだから。本当の問題はそうでなくて、自分は、部屋を選ぶセンスというか、そういう感覚的なものが優れていない。それは部屋に限らず(きっと挙げれば切りがないだろう)。実は住みたい町があって、いつか、そこが自分の町になったらいいなあと思うのだけれど。他ならぬ、自分にとっての「良い部屋」を見つけられるのかな。センスないのに(これは大問題なんだ!)。ちなみに今住んでいる部屋は、値段のわりには広い。だから、一部屋を絵を描くための部屋にしている。以前は、絵を描くことを第一と考えていた。それが正しいと思っていたし、かっこいいとも思っていた。でも、ずっと前からここを(町からも)出て行きたいと感じていて、そして今日ふと、別に狭い部屋でもいいから、住みたい所に住みたい、と思った。ただこれは、今日の心境や、最近の気持ちの落ち込みから、そう思っだけなのかも知れないけれど。もし自分が引っ越しをしたら、携帯電話を解約して、「息子のまなざし」でオリヴィエが使っていたような大きくて四角い電話を、部屋に引きたい。
2009年6月18日
2009年6月17日
2009年6月16日
2009年6月15日
しばらくの間、日記を書いていませんでした。正確に言うと、書く気になれなかった。もっと正確に言うと、前回の日記を書いたとき、もう当分の間書かない(もうできない)と決めたから、あれを書いたわけなのだけれど、それなのに、書きたいことは、ほとんど毎日なにかしらあって、言いたいことや思いついた文章が、頭の中をぐるぐるぐるぐる回っていたのだけれど、いざ、書こうと思うと、それを思ったと同時に、「こんなこと書いてもどうしようもない。」「何にもならない。」という気持ちになって、結局書かなかった。でも今日は、書いている。どうしようもなくても、その、何かしら思うことを記すことは、必要だ。少なくとも、自分には。書きたい、書きたい、と思っていることが分かった。ある人の昔の文章を読んでいて、おもしろそうだったんだ。だから自分も始めたんだけれど。いつしかそれも読まなくなっていて、昨日、久しぶりに読み返したら、やっぱりおもしろかった。
パソコンの画面に打ち出される文字は、自分の文字ではないから(形が違う)、一見、無機質のように思える。でも嫌いじゃない。誰が書いた文章も、同じ形の文字で書かれているのに、そこから受ける雰囲気は同じようにはならないんだよ。それはやはり、言葉の選び方や、言い回しの違いが大きく関係しているのだろうけれど、だからなおさら、違うものを同じ形の文字列で表すから、おもしろいのかも知れない。
パソコンの画面に打ち出される文字は、自分の文字ではないから(形が違う)、一見、無機質のように思える。でも嫌いじゃない。誰が書いた文章も、同じ形の文字で書かれているのに、そこから受ける雰囲気は同じようにはならないんだよ。それはやはり、言葉の選び方や、言い回しの違いが大きく関係しているのだろうけれど、だからなおさら、違うものを同じ形の文字列で表すから、おもしろいのかも知れない。