2009年10月24日

NO-MAでの展覧会が始まりました。このような幸福感はいつ以来だろうか。
しばらくこのままでいたいけれど、そうもいかない。
ひとりまた、てくてく歩いていかないと。
以下、それまでの日記。パソコンがなくて書けなかったので。



22日
ワタリウム美術館で不定期に開催されている「15人の建築家と15人の表現者による対話実験」の第6回「素」を聞きに行った。今回は建築家の乾久美子さんと写真家の梅佳代さんによる対談。まず梅さんが写真をプロジェクターで見せながら、いつもの口調で解説していった。公園を歩く高校生の肩に鳩が停まっているところを横から撮った写真は笑ってしまった(実は両肩に停まっているらしい)。乾さんが2番目に話した「群馬のゲストハウス」の設計に、自分は感動してしまった。建築について、専門用語もルールもまったく分からないが、感動した。設計図を上から見た図(?)をプロジェクターで投影しながら説明していたのだけれど、このゲストハウスの全貌が見えてくる瞬間に、自分はときめいていた。なんといえばいいのか…、実際にあの設計図を見ながら、乾さんのあの説明を聞いていないと、伝えられない。本のページをめくる瞬間に似ている気がする。分からない。これも的外れかもしれない…。帰りに、乾さんのところに行き、挨拶をした。「こんなところに居ていいんですか!展覧会頑張ってください。」と言ってもらった。夜8時から始まって、終わったのが10時半。今夜は冷え込んでいて、こういう夜は、早歩きになる。


23日
3時間くらいしか寝ていない。近江八幡に展示をしに行った。前回は小田原から新幹線に乗ったのだけれど、今回は新横浜から乗った。こっちの方が、時間を短縮できる。調べが甘かった。次回からは新横浜を使おう。前回来たときもそうだったけれど、米原で乗り換えのホームが分からなくなり駅員に聞いたら関西弁でうれしくなる。と同時に心細くなる(分かるだろうか、この感じ)。




2009年10月21日

帰りに石けんのお店に寄った。
量り売りだったので、2種類の石けんを100gずつ買った。
店員が、まるで豆腐かケーキにそうするように、包丁で石けんを切っていた。
目分量で切っては計りに載せ、100gに近づけようとするのだけれど、何度も失敗していた。
綺麗な女の人だった。
折れてしまいそうなほど、細い指だった。



その帰りに喫茶店に寄った。
石けん屋の袋を見て、店員に「そこのお店好きなんです。新商品出ていましたか?」と聞かれた。
自分は「初めて行ったんです(本当に初めて行った)。でも出ていたと思います。」と、よく分からない返事をしてしまった。
それがすこし気がかりだったが、今となってはどうすることもできないので、すぐに忘れた。
綺麗な女の人だった。
肌が白く、よく通る声をしていた。




2009年10月19日

日記1
京橋/ギャラリー坂巻「菅野静香 mystic」展、銀座/GALLERY TERASHITA「五十嵐彰雄」展。


日記2
絵は自分が描く。


日記3
誰も見たことないような、誰も体験したことないような感覚にさせる作品が一番だという考え方には、自分は違和感を憶える。
そう言うと、「美術はお化け屋敷じゃないからな。」と、Hさんは言った。


日記4
流行りもあるのか、アウトサイダーアートに対して好意的な印象を持つひとが多い。ただ、アウトサイダーアート「だから」すべて良いとすることがある気がする。自分は、それは違うと思う。よくないものはよくない。それとは反対に、こういう風潮があるからか、一歩引いた目で見る人もいるようだ。それはそれで、実につまらない。いいものはいいし、よくないものはよくない。「『出自』が『何所』だから」という理由で、どちらに対してでも感情を持つのは、くだらない。




2009年10月18日

六本木/国立新美術館「光 松本陽子/野口里佳」展、雪谷大塚/小島びじゅつ室「坂本太郎展 森守」。

招待券をいただいていたのに、まだ見に行っていなかった。国立新美術館には、いたるところに椅子があって、いつも人で埋まっている。それはいいとして、展覧会を見るまで気づかなかったけれど、野口さんの写真は何年か前にギャラリー小柳で見たことがあった。黒い部屋に展示してあった太陽の写真(鹿が映っているやつ)を見て気がついた。印象に残ったというか、ひっかかったのが、「フジヤマ」のシリーズで、霧のような雲のようななかに女の子の後ろ姿が見える写真だった。走っていってしまうような後ろ姿だった。あとは「マラブ」のシリーズの写真。この写真をギャラリー小柳で見たとき、はじめ、妙な人が立っている姿を映したものだと思って、そんなに深刻そうじゃないのだけれど、ちょっと不気味な印象を持ったのを憶えている。その、人だと思ったものが本当は鳥だと分かったあとも、人間みたいだ、と思っていた。それが今日、予想していなかったかたちでまた見ることになり、あのときと同じことを思っていた。写真だけが照らし出された暗い部屋のなかで。すこし時間があったので、ミュージアムショップに寄った。新美術館のミュージアムショップはすきだ。なかなか見応えがある。こういうところで売っているTシャツは、なぜあんなに高いのだろうか。アトリエインカーブのものが欲しかったのだけれど、高すぎて買わなかった。

小島びじゅつ室は自分が4月に個展をした場所で、半年ぶりに会場に入るのは、なんだか妙に緊張した。ここに自分の絵があって、いろいろな人が見にきてくれた。うれしかった。あの展覧会のことは、まだちゃんと憶えている。

でも、もう半年もたってしまった。最近は、天気はいいけれど気分が晴れない。ずっと落ち込んでいる。いや、たまにはこういうこともいいのだけれど、長く続くのはあまりよくない。でも、もうずいぶんと長いあいだになる。



2009年10月17日

表参道画廊+MUSEE F「開廊10周年記念展」を見た。画廊に向かう道は初めて通ったので、目新しく、色々なものを見ながら歩いた。高そうな家具屋や、トートバッグを売っている店、大きな家、新しそうな白い壁の家、綺麗な花が咲いている木がある家、古いアパート、すこし離れたところにある高いビルには、ガラス張りの部屋のなかにテーブルやソファが無造作に置かれているのが見えた(あの部屋は何なのだろう…)。ほとんど建物しか見ていない。そしてそのすべての中を覗いてみたいと思いながら歩いていた。画廊の近くの広場みたいなところで子供や大人たちが、とんがった黒い帽子を被っていたり、オレンジ色の何かの飾り付けをしていたり、ハロウィンを意識して何か賑やかにしていた。はじめは運動会をやっていると思ったのだけれど、帰りにまたそこを通ったら、門のところの小さな看板に「隣人まつり」と書いてあった。なんだか楽しそうだな、と、一瞬入ってみようかと思ったけれど、自分にはそれができない。ほかの人なら、すっと入っていけるのだろうか。


展覧会には17人の作品が並んでいて、部屋に入ってすぐに目にとまった絵を、たぶん森山晶さんのだ、と思って近づいたらやっぱりそうだった。地平線(水平線)の絵で、岩絵の具が照明に反応してちらちら光っていた。それはさながら空気のようにも思えたし、目が慣れないと見えない星のようにも思えた。この絵のタイトルがすきだった。




2009年10月12日

ことしは雪がふるでしょうか。




2009年10月1日

ウェブを更新しました。風邪気味。鼻をかみすぎて痛い。


今月の24日から始まる展覧会のチラシを、また知人や友人に送るのだけれど(まだ準備していない)、綺麗なチラシだから折りたくなくて、そうするとメール便で送ることになって、そうすると切手が貼れなくて、そうすると宅急便のあのバーコードみたいな黄色いシールになってしまう。それがなんとなく気が進まない、というか嫌なのだけれど、きっとそうする。


この前、ふらっとTSUTAYAに行って何か借りようと思った。正確には「ミート・ザ・ペアレンツ」を借りようと思っていた。これは、1ヶ月くらい前に深夜テレビでやっているのを途中から観て、かなりおもしろかったので、最初から観たくなったから。でもこの日は、そういうコメディタッチのものを観たい気分ではなくて、何にしようかとフラフラ歩き回って、結局「チャプター27」を借りた。監督はJ・P・シェーファー、主演はジャレッド・レト。マーク・チャップマンによるジョン・レノン殺害までの3日間を描いた映画。自分はビートルズの音楽のことも、ジョン・レノンのこともよく知らないから、この映画に真実味があるのかわからない(よく知っていても本当は犯人にしか分からないのだけれど)。ジャレッド・レトがよかった。すこし話題になった、体重を数十kg増やすなどの役作りは、最初に登場するシーンでちょっと衝撃を受けた(あの映し方はとてもよかった)。とはいえただの肥満体になったというよりは、もともと体を鍛えている人だから、筋肉がしっかりしている太った体、という印象で、もう引退したけれど、関取時代の舞の海さんみたいだった。そういう体の役作りよりも、映画の中のチャップマンの、あの人間描写がとてもよかったと思う。特に、出待ちをしているカメラマンやジュードというジョン・レノンのファンの女の子に対する、「まだ居るだろ?居てくれ。行かないで。」と引き止めるシーンは本当に不気味だった。このひと役者じゃないんじゃないかな、と思ってしまうほどだった。エンドロールが流れて、ジョン・レノン役の人の名前を見たら、マーク・リンゼイ・チャップマンだった。なぜ、チャップマンに殺されたとされるジョン・レノン役を、犯人と同じ名前の人が(ミドルネームは違うけれど)演じたのだろうか。別にいいのだけれど。顔がはっきり映るわけではないから、その人でなければならない理由があるとは思えないし、意図したものだとしたら、なぜなのだろう。