部屋から一歩も出ない。
2010年1月30日
2010年1月29日
2010年1月27日
2010年1月26日
展覧会8日目。
人があまり来ないので、ボイスの本を読んでいる。自分は同じことをしないのだけれど、ボイスという作家から受けた衝撃が、あれから消えずに残っている。ぼんやり考えては、自分の絵を見て、何をしているのか、と思う。
帰り際、大学の知り合いが立て続けに来てくれた。そのうちの何人かと帰りに表参道で夕飯を食べた。お腹がいっぱいになって、満腹になれるということは幸せなことだ、とまた思った。3時間くらいその店に居たのだけれど、途中、おそらくキッチンで働いていた店員がフロアに出てきて、顔を見たら、朝の電車でよく見掛ける人だった。こんなこともあるのだなあと、それを皆に話すと、「話し掛けろよ。」と言われたけれど、そんなことはできない…。また帰りが遅くなったけれど、ひととご飯を食べるのはなかなか楽しいし、おいしい。「コミュニケーションは『食』から」という岸田さんの言葉は、正しい。
人があまり来ないので、ボイスの本を読んでいる。自分は同じことをしないのだけれど、ボイスという作家から受けた衝撃が、あれから消えずに残っている。ぼんやり考えては、自分の絵を見て、何をしているのか、と思う。
帰り際、大学の知り合いが立て続けに来てくれた。そのうちの何人かと帰りに表参道で夕飯を食べた。お腹がいっぱいになって、満腹になれるということは幸せなことだ、とまた思った。3時間くらいその店に居たのだけれど、途中、おそらくキッチンで働いていた店員がフロアに出てきて、顔を見たら、朝の電車でよく見掛ける人だった。こんなこともあるのだなあと、それを皆に話すと、「話し掛けろよ。」と言われたけれど、そんなことはできない…。また帰りが遅くなったけれど、ひととご飯を食べるのはなかなか楽しいし、おいしい。「コミュニケーションは『食』から」という岸田さんの言葉は、正しい。
2010年1月25日
今日は展覧会場に行く前に、渋谷のユーロスペースで「蘇りの血」を観た。12月の初めの方にこの日記で書いた、豊田利晃監督の新作。
この人の映画はけっこうすきで、何がすきなのか自分でもよく分からないのだけれど、今回のは正直よくなかった。それで分かったのだけれど、原作が有る無いに拘らず、いつもギリギリ、ともすれば映画とならないような際どいところでやりきっている、映画にしているところが良かった、というか自分はすきだった。「ポルノスター」なんかはその典型なかんじで、「青い春」はこの人の傑作だと思う。でも今回の「蘇りの血」は、内容も設定も役も宙ぶらりんな印象が始終消えなかった。自然の映像を使ったミュージッククリップと思うときが何度かあったり、必要性がない間延びする映像が多かった。自分も絵を描いたりするから、この先どういう風になるかは分からないし、前回の展覧会を見た印象で自分のことを期待されるのは苦しい部分があるので、豊田さんに対しても「青い春」の感じの映画を作ってくれとは思わなくて、豊田さんの映画になっていればいいというくらいにしか思わないのだけれど、それにしても、その出来上がったものに中途半端な感じが見え隠れするのは、やはりよくないと思う。所々にいいところもあるから、余計にそう思う。たとえば、テルテがオグリの乗った舟を川へ流すために駆けていくスローモーションとか、オグリが最後に首に刀を当てるときの表情とか。自分は中村達也が結構すきだから、やっぱり残念だったな。映画全体のたるみを、見る側の解釈に委ねて成り立たせることもできるけれど、それは甘さをもってすれば、という感じだった。
平日の午前の回だったからかもしれないけれど、観客が少なくて、自分を入れて3人だけだった(しかもそのうちのひとりは途中で帰ってしまった)。エンドロールが流れ終わって会場が明るくなると、自分の斜め前で見ていた30代くらいの女の人が「2人しか居ないですねー。」と声を掛けてきてくれて、しばらくその場で話した。「なんでこの映画を観ようと思ったんですか?」と思いがけない質問をされて「豊田さんの映画が結構すきなのと、中村達也がすきだからです」と答えた。その女の人にも同じ質問をすると、この映画のプロデューサーが姉の昔の恋人だから嬉しくなって観に来た、とこれもまた思いがけない答えが返ってきた。昨日はおばさんからチケットをもらったし、今日もまた知らない人から声を掛けられて、妙な、しかしながら心持ち軽い気持ちになった。
展覧会7日目。
映画のあとギャラリーに着いたのが午後1時半前。見てもらいたかった人に来てもらえたけれど、その人は絵を見たあとにすぐ出て行ってしまった。あまり印象に残らないものだったのかもしれない。
この人の映画はけっこうすきで、何がすきなのか自分でもよく分からないのだけれど、今回のは正直よくなかった。それで分かったのだけれど、原作が有る無いに拘らず、いつもギリギリ、ともすれば映画とならないような際どいところでやりきっている、映画にしているところが良かった、というか自分はすきだった。「ポルノスター」なんかはその典型なかんじで、「青い春」はこの人の傑作だと思う。でも今回の「蘇りの血」は、内容も設定も役も宙ぶらりんな印象が始終消えなかった。自然の映像を使ったミュージッククリップと思うときが何度かあったり、必要性がない間延びする映像が多かった。自分も絵を描いたりするから、この先どういう風になるかは分からないし、前回の展覧会を見た印象で自分のことを期待されるのは苦しい部分があるので、豊田さんに対しても「青い春」の感じの映画を作ってくれとは思わなくて、豊田さんの映画になっていればいいというくらいにしか思わないのだけれど、それにしても、その出来上がったものに中途半端な感じが見え隠れするのは、やはりよくないと思う。所々にいいところもあるから、余計にそう思う。たとえば、テルテがオグリの乗った舟を川へ流すために駆けていくスローモーションとか、オグリが最後に首に刀を当てるときの表情とか。自分は中村達也が結構すきだから、やっぱり残念だったな。映画全体のたるみを、見る側の解釈に委ねて成り立たせることもできるけれど、それは甘さをもってすれば、という感じだった。
平日の午前の回だったからかもしれないけれど、観客が少なくて、自分を入れて3人だけだった(しかもそのうちのひとりは途中で帰ってしまった)。エンドロールが流れ終わって会場が明るくなると、自分の斜め前で見ていた30代くらいの女の人が「2人しか居ないですねー。」と声を掛けてきてくれて、しばらくその場で話した。「なんでこの映画を観ようと思ったんですか?」と思いがけない質問をされて「豊田さんの映画が結構すきなのと、中村達也がすきだからです」と答えた。その女の人にも同じ質問をすると、この映画のプロデューサーが姉の昔の恋人だから嬉しくなって観に来た、とこれもまた思いがけない答えが返ってきた。昨日はおばさんからチケットをもらったし、今日もまた知らない人から声を掛けられて、妙な、しかしながら心持ち軽い気持ちになった。
展覧会7日目。
映画のあとギャラリーに着いたのが午後1時半前。見てもらいたかった人に来てもらえたけれど、その人は絵を見たあとにすぐ出て行ってしまった。あまり印象に残らないものだったのかもしれない。
2010年1月24日
昨日の日記に書いた大学の集まりのあと、何人かで中華料理屋で夕飯を食べ、その中のひとりと小一時間帰り道の途中で話した。こういう、夜の道ばたで思いもかけず誰かと長話になったとき、妙に自分のこれからのこととか考えたりする(話していて楽しいというのがあるときに限るかもしれないけれど)。未来があるかは知らないが、あるのならば全力で明るく照らしたい。そう思う。部屋に戻ったのが夜の1時くらいで、今日に備えて眠った。
水戸/水戸芸術館現代美術ギャラリー「Beuys in Japan ボイスがいた8日間」展。ボイスのことを自分はよく知らないで、この展覧会もHさんから薦められたから見に行こうと思ったのだけれど、間違いなく、見に行ってよかった。作品自体の量や、ボイスの思想、繰り出される言葉(「拡張された芸術概念」「人間はみな芸術家」など)にもほぼ初めて触れたから、強い印象を受けたけれど、それよりもむしろ、日本に居たボイスを捉えた映像(空港での様子、展示作業の風景、対話集会の模様、草月ホールでのパフォーマンス、日本を離れる前の会話など)に感動した。本当の記録、映像の力を見た。ボイスが日本に来た1984年は自分が生まれた年(正確には生まれる数ヶ月前)で、その1年半後にボイスは亡くなってしまうから、自分はボイスを知らない。自分の好きな画家の多くももう死んでしまっているから、自分は彼らを知らない。フィクションかもしれない彼らを知っているといえばそうなのだけれど。でも、この展覧会では、ボイスが話している内容と同じくらい、話すときの姿、声の大きさや話し方、身振り手振りがそのまま目の前で映し出されていることに感動しました。しかも、あんな芸術家は、いまは居ないじゃないですか。そのことの衝撃が、強かった。
水戸に行くときは実家から車で行くようにしている(茨城の道は走りやすいし、道中の景色、特に海際を走るときの景色が最高だから)。 ただ今日は寝不足で、運転するのがすこし怖かったので電車で行った。電車賃はかなりかかるけれど、事故を起こすよりはいいだろう。初めて電車から見る景色だし。水戸芸に着いたら、コンサートか舞台を見るための人たちがロビーにたくさん居て、チケット売場の前も混んでいた。自分より先に並んだおじさんの後ろに立って順番を待っていると、「ボイス見るの?」と横からおばさんに話し掛けられ、すこし驚いたあと「はい。」と答えた。「招待券あるからね、あげる。」とクシャクシャのチケットをくれた。何だかよく分からないうちに、それを受けとって、「ありがとうございます。」と3回くらい言ったと思う。うれしかった。前に居たおじさんはチケットを買ってしまった。
水戸/水戸芸術館現代美術ギャラリー「Beuys in Japan ボイスがいた8日間」展。ボイスのことを自分はよく知らないで、この展覧会もHさんから薦められたから見に行こうと思ったのだけれど、間違いなく、見に行ってよかった。作品自体の量や、ボイスの思想、繰り出される言葉(「拡張された芸術概念」「人間はみな芸術家」など)にもほぼ初めて触れたから、強い印象を受けたけれど、それよりもむしろ、日本に居たボイスを捉えた映像(空港での様子、展示作業の風景、対話集会の模様、草月ホールでのパフォーマンス、日本を離れる前の会話など)に感動した。本当の記録、映像の力を見た。ボイスが日本に来た1984年は自分が生まれた年(正確には生まれる数ヶ月前)で、その1年半後にボイスは亡くなってしまうから、自分はボイスを知らない。自分の好きな画家の多くももう死んでしまっているから、自分は彼らを知らない。フィクションかもしれない彼らを知っているといえばそうなのだけれど。でも、この展覧会では、ボイスが話している内容と同じくらい、話すときの姿、声の大きさや話し方、身振り手振りがそのまま目の前で映し出されていることに感動しました。しかも、あんな芸術家は、いまは居ないじゃないですか。そのことの衝撃が、強かった。
水戸に行くときは実家から車で行くようにしている(茨城の道は走りやすいし、道中の景色、特に海際を走るときの景色が最高だから)。 ただ今日は寝不足で、運転するのがすこし怖かったので電車で行った。電車賃はかなりかかるけれど、事故を起こすよりはいいだろう。初めて電車から見る景色だし。水戸芸に着いたら、コンサートか舞台を見るための人たちがロビーにたくさん居て、チケット売場の前も混んでいた。自分より先に並んだおじさんの後ろに立って順番を待っていると、「ボイス見るの?」と横からおばさんに話し掛けられ、すこし驚いたあと「はい。」と答えた。「招待券あるからね、あげる。」とクシャクシャのチケットをくれた。何だかよく分からないうちに、それを受けとって、「ありがとうございます。」と3回くらい言ったと思う。うれしかった。前に居たおじさんはチケットを買ってしまった。
2010年1月23日
2010年1月22日
2010年1月21日
2010年1月20日
2010年1月19日
2010年1月18日
展覧会1日目。
描いた絵を見てもらえるというのは、どきどき落ち着かなくなるのと一緒に、うれしいという気持ちがある。描いた絵のこととか、これからのことを自分で考えることも大切なのだけれど、わざわざ見に来てもらうと、そういう感情がやっぱり出てくる。もう、展覧会が始まったらどうすることもできないから、ただ来るのを待つだけなのだけれど、せっかく来てもらったからには、がっかりしないといいなあと思う。がっかりする人はいるだろうけれども。自分のこの油絵の場合は、ひとりで描いているし、人のために描いているわけではないので、今言ったようなことばかり気にしているということではない。ただ、展覧会をして人と会ったり話をしたりするからには、ひとりだけで終わらせることはできない。
帰り、もらった花の元気がなくならないように、電車のなか、人に潰されないように、気をつけた。
「絵を運んでいるときに雨が降ってきたら、画家は、自分にではなく絵に傘をさす。」それと同じように。
描いた絵を見てもらえるというのは、どきどき落ち着かなくなるのと一緒に、うれしいという気持ちがある。描いた絵のこととか、これからのことを自分で考えることも大切なのだけれど、わざわざ見に来てもらうと、そういう感情がやっぱり出てくる。もう、展覧会が始まったらどうすることもできないから、ただ来るのを待つだけなのだけれど、せっかく来てもらったからには、がっかりしないといいなあと思う。がっかりする人はいるだろうけれども。自分のこの油絵の場合は、ひとりで描いているし、人のために描いているわけではないので、今言ったようなことばかり気にしているということではない。ただ、展覧会をして人と会ったり話をしたりするからには、ひとりだけで終わらせることはできない。
帰り、もらった花の元気がなくならないように、電車のなか、人に潰されないように、気をつけた。
「絵を運んでいるときに雨が降ってきたら、画家は、自分にではなく絵に傘をさす。」それと同じように。
2010年1月17日
大学時代の知り合いの展示を見に行った。11月の日記に書いた人が今度はカフェでやっている。その店のメニューがたくさんあって迷ったあげく、スパイシーハヤシライスと食後に苺がのったレアチーズタルトとコーヒーを注文した。運ばれてきたハヤシライスの量が結構多くて「これは40分あっても食べきれない。しまった、ケーキを注文するんじゃなかった。今から持ち帰りに変更してもらおうか。」と思っていたら結局20分で食べ終わり、ケーキもちゃんと食べた。普段そんなことは考えないのに、満腹になれるということは幸せなことなのだと思った。
彼女はもう帰ったあとで会えなかったけれど、この前とはまた違う絵が見られてよかった。彼女が描いた植物の絵を見ると、自分も描いてみたくなる。でもまだ描いたことがなくて、自分の部屋に飾る用に、何か花の絵を描いてみようか。
ということで、自分の展覧会も明日から始まります。よろしくお願いします。
彼女はもう帰ったあとで会えなかったけれど、この前とはまた違う絵が見られてよかった。彼女が描いた植物の絵を見ると、自分も描いてみたくなる。でもまだ描いたことがなくて、自分の部屋に飾る用に、何か花の絵を描いてみようか。
ということで、自分の展覧会も明日から始まります。よろしくお願いします。
2010年1月15日
2010年1月12日
久しぶりの雨。一日中の雨は、いつぶりだろうか。それで今日はとても寒かった。冗談かと思うくらいに寒かった、、。でも、「寒い寒い。」と口の中で言いながら外を歩くのはいい(雨は降っていない方がいいけれど。何が嫌って、靴が濡れるのが嫌だ)。誰にも聞こえないように、「寒い寒い。」と言いながら冬を歩く。自分が毎日出掛ける時間帯は、一般的な社会人からしたらお昼前なのだけれど、駅に向かう道を歩いているときも、電車に乗っているときも、空気の明るさ(太陽の光の加減)は暖かい季節の朝のそれと似ている、というか同じだ。そして、午後2時を過ぎる頃には、もう、暖かい季節の夕方のそれとなっている。
去年くらいから、ハーブティーを飲むようになって(以前は、おいおいこんなへんな味のお茶は飲めないよ、と思っていたのだけれど)、最近では毎日絵を描くときに飲んでいる。別に詳しいわけではなくて、自分が買ったのはカモミールで、これはリラックス効果があるらしい。自分は単純な人間だから、そう言われればそういう気になってしまうのだけれど、それを抜きにしてもおいしい。絵を描く前にお湯をたっぷり沸かして、赤い保温ポットに入れておき、無くなったら足してを繰り返して飲んでいる。
去年くらいから、ハーブティーを飲むようになって(以前は、おいおいこんなへんな味のお茶は飲めないよ、と思っていたのだけれど)、最近では毎日絵を描くときに飲んでいる。別に詳しいわけではなくて、自分が買ったのはカモミールで、これはリラックス効果があるらしい。自分は単純な人間だから、そう言われればそういう気になってしまうのだけれど、それを抜きにしてもおいしい。絵を描く前にお湯をたっぷり沸かして、赤い保温ポットに入れておき、無くなったら足してを繰り返して飲んでいる。
2010年1月11日
2010年1月8日
2010年1月6日
2010年1月3日
昨日の日記に書いたのに、事務局に電話するのを忘れた。危機感がないですね。絵の具は買いに行った。それとは別に欲しい本があったので、デパートの中の本屋に行ったのだけれど、デパート全体がセールで人がごちゃまんと居て、疲れた。結局本は在庫がなくて、電車で帰り、その本は自分の最寄りの駅の本屋で見つけた。会計を済ませると、店員の人が「こちら、おみくじチョコです。よろしければどうぞ。」と言って、チョコをくれた。なんとなく今日は「サムサッカー」が見たくなって(映画とか見ている時間などないのに!)、TSUTAYAに寄った。これ借りるの3回目。もうDVD買った方がいいかもしれない。このTSUTAYAに行くと、いつもワゴンセールのコーナーを必ず見る。ここで、もう3枚も欲しいのを見つけて買ったから。1枚目は「息子のまなざし」、これはもう本当に買ってよかった。2枚目は「ダイ・ハード3」、これは衝動買いに近いけれど、シリーズの中で一番好きだったから。3枚目は「家の鍵」、ラスト近くのシーンで、パオロが父親のところに近寄っていく場面が忘れられなかったから。それで、今日もワゴンの中を覗いたのだけれど、なんと!「シザーハンズ」と「妹の恋人」の2枚組セットが売られていた!これはもう、自分のためにあったとしか思えないほどの組み合わせである。3回目にも関わらず、「サムサッカー」を借りにきてよかった。
部屋に戻ってきて、本屋でもらったチョコレートをポケットから出して見ると、包装のフィルムに「おみくじ神社」とあった。なんか妙な名前だな、と思って、まだ食べずにそばに置いてある。おみくじチョコだから、運勢が書かれているのかな。自分が最後に引いたおみくじは、滋賀の展示のオープニングの日に奥村さんや森田さんと行った神社で引いたもので、そのときは凶だった。今となっては何が書いてあったか忘れた。神社の木の枝に結んできたんだ。
部屋に戻ってきて、本屋でもらったチョコレートをポケットから出して見ると、包装のフィルムに「おみくじ神社」とあった。なんか妙な名前だな、と思って、まだ食べずにそばに置いてある。おみくじチョコだから、運勢が書かれているのかな。自分が最後に引いたおみくじは、滋賀の展示のオープニングの日に奥村さんや森田さんと行った神社で引いたもので、そのときは凶だった。今となっては何が書いてあったか忘れた。神社の木の枝に結んできたんだ。
2010年1月2日
いろいろ落ち着かない要素が溜まってきている。まず、ずいぶん前に出した公募展の受け付けの便りが来ない。事務所はまだ休みかもしれないけれど、明日電話を掛けてみよう。困ったな。お金は振り込んでしまったというのに、受け付けが済んでいなかったら、どうしよう。次に、絵の具が無くなりそうだ。最近の絵でよく使う絵の具で、これがないと困る。もうすこし買いだめしておくべきだった。今調べたら、明日は画材屋がやっているようなので、買いに行こう。次に、個展のこと。今回は、今までになく不安である。状態が悪い。眠りたくても眠れない。あとは、未来の不安。これはどうしようもない。未来なんてあるのだろうか。
今回の展覧会のタイトルは「メロディーはない」です。「メロディー『が』ない」でもなく「メロディー『も』ない」でもありません。だから何、って言われたらそれまでですが、言葉の意味も含め、そういうことです。
今回の展覧会のタイトルは「メロディーはない」です。「メロディー『が』ない」でもなく「メロディー『も』ない」でもありません。だから何、って言われたらそれまでですが、言葉の意味も含め、そういうことです。