2014年12月26日




このことばに、この音に、気がつくといいなと思いながら、音楽を集めてCDにした。
それを聴いて描かれる景色のなかに自分が居たなら、それが例えどんな景色だろうと、涙が出てしまうだろう。



2014年12月19日

日記を書かない間に思ったことや出来事など。




世界は往々にして、上昇したあとは下降してゆく。
成長の後には老衰があり、幸福のあとには悲しみがある(もちろんその逆もあるのだけれど、自分の奥深く流れているものが暗いから、どうしても悲しみや空しさというのが後からやってくる)。
年齢を重ねていくと世界のその仕組みについて分かるようになってくるので、いいことがあると身構えるようになる。


嬉しいことがあったけれど、そこには常に悲しみが顔を覗かせていて、結局最後にはそれだけが残ってしまった。
その冷たい気持ちに引っ張られ、自分の身体や精神は暗い海の底に沈んでいく。


忘れては思い出し、思い出してはまた忘れる。
そういう世界のなかに生きている。
「否、それでも世界は美しい」とHさんは言っていたけれど、次にそう思える日はいつになったらやってくるのだろうか。






今年の夏前、久しぶりに100号の絵を描いた。
夜、部屋に戻ってきて2時間ほど仮眠して、そのあと朝方まで絵を描き、また出かけるまで2時間ほど寝る。という生活を何ヶ月か続けていた。

自分は昔から制作を始めるとその間は睡眠や食事は二の次で、色々とおろそかになる。
たぶん体を壊すだろうな、と思いながら続けていた。
でもどこかで、それでおかしくなるなら本望というか、それで終わってしまっても構わないと思いながら描いていた。
大きなカンヴァスに向かっているときは、やはり自分には胸を張れるものがこれしかないと改めて思った。
それで、リミットまでに絵を描き上げてみると、身体はなんともならなかった。
何日か泥のように眠ったけれど、風邪を引いたり調子がおかしくなるというのはなかった。
なんだ、やればできるんだな、と思った。
どこかで「負けるもんか」という気持ちがあり、それをエンジンのように燃やしながら日々の中を進んでいたのかもしれない。

絵を描いていると、自分の場合たのしいだけでは済ませられなくて、うまくいかないこともあって悩んだりするけれど、一枚の絵が終わる前のほんの一瞬、これはとんでもない絵を描いてしまった。という瞬間があり、それがあるから続けている。
辞める理由はたくさんある。でも辞めないのは、これは自分ですと言い切れるものが絵だけだからなんだろう。
「僕が知っているのはあの空が何色でできているかということだけです。」

それで、制作中に他のことをおろそかにしてしまうことについて、もう何年もの間、治さなくちゃいけないなと思うのだけれど、一向に治らない。
結局のところ、自分ではそこまで深刻に考えていないのだろうと思う。



2014年12月15日

もう、それこそディスクが擦り切れるのではというくらい観ている。
映画「ドラゴンタトゥーの女」のラストシーンを、ふと思い出す。
リスベットがクリスマスプレゼントを渡そうとミカエルのマンションへ行くと、ちょうど彼が恋人と出かけるところだった。
それを離れたところから見つめ、ふと我に返ったように用意したプレゼントを道ばたのダストボックスへ投げ入れ、そのまま会わずに帰ってしまう。

あのときの、リスベットの空を見つめるような視線に、胸が軋む。
何を勘違いしているんだ、目を覚ませ、というような。
物語が進むにつれて人間らしい(といったらすこし陳腐だけれど)、感情や欲望を表わしていた彼女が、最後にはまた映画の冒頭のような、冷たくて凶暴で、でもどこか怯えているような姿に戻っていく。
リスベットはどこか、自分には幸福は訪れないと覚悟しているようで、まるで自分を見ているような気持ちになる。

映画の季節が冬ということもあってか、この季節によく観たくなる。





それで、しばらく日記を書くのをサボっていて、それでは日記ではないだろうということなのだけど、毎日何かしら書きたいことはあった。
ただ一言でも、ぽつぽつと書けばいいのに書かなかった。
自分は本当にまめな性格ではないな。

色々あった。
今となってはその一言だ。





2014年11月4日



五木田さんの絵、すきだな。
モノクロームという限られた世界の中に広がる自由。
ぎりぎりのところで突っ張っている感じが、やっぱり自分はすきなんだな。
癖になる絵というのはこういうことかもしれない。





2014年10月22日



秋の終わりに行って帰ってきた。



2014年10月14日

風邪を引いた。

夜、絵を描こうとしたけどふらつくので漢方薬何種類か一気に投入して思い切って寝た。
身体がどくどく波打つのが分かった。
いよいよまずいかな、と思ったころ、意識が遠のいた。
夜中、目が覚めると薬が効いているのが分かった。
まどろむような感じだった。
身体が熱く、汗がびっしょり。
汗をかけば治るから、とひらすら毛布にくるまっていた。

早朝、起きると熱の余韻があったものの、気合じゃ、気合じゃ、と言い聞かせてフル回転で家事をこなした。
洗濯機を2回まわし、南瓜を煮て、弁当を作った。

そして夕方、風邪をぶり返した。






2014年10月10日



「前だけ見れば何でも見える。」って、すきな言葉。
継続するのは難しいけれど、すきな言葉。




2014年10月5日

ジェシー・アイゼンバーグも誕生日。


日記1)
「たったひとりに出会うこと。」
Sさんが言った言葉を大切にしている。
自分の絵を気に入ってくれる人に出会うことの奇蹟。
「会場に自分の絵を気に入ってくれる人が居たとしても、自分の絵の前を必ず通るとは限らない。」
そういうこと。
絵を描くことはひとりで、たまに心細さに押しつぶされそうになる。
バンドとか多人数でやる音楽がときにうらやましく思うことがある。
何人かが集まって一匹のモンスターのようになった気分だろうか。
ただ、絵を描くのはひとりだからこそ、自分が「問題」でもあるし、同時に「答え」でもある。
世界からどんなに批判的な言葉を発せられても、描いた者が描いた絵が「正解」なのだ。
その感覚は忘れたくないと思う。
問題であると同時に答えで居られる。


日記2)
元気になって、前向きに生きていけそうな気がした。
それも一週間ももたず消えてしまった。
どこからともなく泣きたい気持ち。


日記3)
身体が時間に追いつかない。



2014年10月3日

石川寛さんの「tokyo.sora」は大好きで、ひとりひとりにそれぞれの生活があることを思い出させてくれる。
自分の生活と、誰かの生活。
それが思いがけないところで重なっていることがあるし、離れてはまた近づいてくることもある。

特にすきなのは、映画の冒頭で美大生の女の子が丁寧に手を洗っているところと、繁盛していない喫茶店のマスターが「おいしいコーヒーを飲みに行こう。」と誘う場面。
それと、この映画には小田急線がよく出てきて、大学時代から沿線に住んでいる自分としてはより親近感が湧く。



2014年10月1日

安心な僕らは旅に出ようぜ
思い切り泣いたり笑ったりしようぜ
僕らお互い弱虫すぎて、踏み込めないまま朝を迎える
最終バス乗り過ごしてもう君に会えない
あんなに近づいたのに遠くなってゆく
安心な僕らは旅に出ようぜ
思い切り泣いたり笑ったりしようぜ


この世界に存在することに感謝する歌のひとつ、くるりの「ばらの花」。




2014年9月21日

結局、どしゃ降りどころか晴天だった。
人がいつもより多かった。
波の音はいつまでも聞いていられる。
ストーブや焚き火の炎をいつまでも見ていられるのと同じ。




雲のなかに虹が出ていた。










ジョゼが言うところの、「なんやあの雲、持ってかえりたいわ。」の雲だった。








2014年9月20日

どしゃ降りになろうが日曜日は蓮沼海岸に行くのだ。
そうでないと頭がおかしくなりそうだ。




2014年9月17日

また会って下らない話がしたいな。
もうこの街にはいないのかな。




2014年9月13日

息が苦しくなり駅のホームで休んでいたら、女の人が声を掛けてくれた。




2014年9月6日

qpさんがむかし日記に書いていたことで、たまに思い出すことがある。
紙屋(たしか竹尾)で色んな紙を見ていて、「究極の白」というような名前の新しい紙があって、qpさんは、「究極の白はどうでもいいから、究極の黒い紙が欲しい」と、言っていた内容の日記(言い方が違うかもしれないけれど、そのようなことだったと思う)。

究極の黒い紙は確かに作ることは難しいかもしれない。
どんなに黒くても、そこには光があるというか。

ただ、ベーコンとロスコの絵には、究極の黒があった。









2014年9月2日

沈黙のエコー。




2014年8月28日



しばらく泥のように眠りたい。




2014年8月18日



じいちゃんは亡くなるすこし前から忘れっぽくなり、たとえば昨日誰が見舞いにきたかとか自分がもう家には帰ることはできないこととか、次の日になると忘れていた。
じいちゃんはコーヒーが好きで、よく一緒にガストに行った。
最後に一緒に行ったとき、じいちゃんはガストのプリンを休み休み食べていたけれど、結局全部は食べ切れなかった。
肺が悪く、動くとすぐに息が切れ苦しくなってしまうので車椅子で移動することが多くなり、そのうちベッドからもあまり動かなくなった。
(記憶がすこしおかしくなるまでは)頭はしっかりしているのに思うように動くことができない、という状態で気の毒だった。

それでじいちゃんは病院で亡くなった。
傍には誰も居らずひとりで、しばらくしてから看護師が気がついた。
毎日、必ず誰かが面会に行くようにして、長い一日のうちの数時間だけでも一人にさせないようにしていたのに、肝心なときにじいちゃんは独りだった。

面会に行って一緒にいる間は会話もできるし、笑っていて、ひとりじゃないってじいちゃんは分かっていたけれど、最後の方は忘れっぽくなっていたから、死ぬときにちゃんと自分達のこと思い出してくれたかなとか、ちゃんといい思い出を持っていけたかなとか、色々考えた。

人間の記憶は溜まる一方で消えることはない、忘れているだけで脳のどこかには残っている。と、聞いたことがある。
それが本当ならいい。



2014年8月8日


ホームページ、新しいサーバーに移動するまで広告が出てきます。
知らない番号から不在着信があって、調べてみたら新潟からだった。



2014年8月5日


昔の写真。




2014年7月30日





2014年7月24日

しばらくなにも書けないので、写真だけ載せていきます。






2014年6月17日

伝えたかったことの半分も話せなかった。

夢のようでもあったけれど、過去も今も紛れも無く現実で、過ぎてしまった時間に思いを馳せた。
思いを馳せて、涙がでた。

ただ、元気そうでよかった。

本当は、助けてほしいと、とても言えず、
過ぎた時間の向こう側とこちら側に自分は立ち尽くしていて、頭と心の間に大きな隔たりがある。
この差をどのように埋めたらいいのか、分からない 。




2014年6月13日

今日も終わりにできなかった
あしたこそは、と思ってまた朝になる
目が覚めたらあした
せかいを消すのだ




2014年5月29日





2014年4月25日

そこまでやらなければならない義理はないし、そろそろ潮時かもしれない。
すこし前までは、ささやかながらある役割に喜びを感じていたが、もう無い。
気持ちは暗く沈んでいき、ここはどこだろうかとふと思う。

嫌な夢ばかり見る。
こんな世界、もう用はないのかもしれない。

グラウンドのようなところに、大きな縦長の岩がいくつも置かれていて、その中の一つの上に自分は立たされている。
岩は底が平らでないのでグラグラしている。
自分が立っている岩に別の岩が寄りかかっていて、それによってかろうじて倒れないですんでいる。
それなのに、誰かがやって来て、寄りかかっていた岩をどこかに運んでしまい、自分の岩はバランスが崩れて倒れそうになる。
なんとか堪えて立ち続けていたら、自分より低いところの岩に立っていたおじさんが、近くから倒れてきた岩に挟まれて潰れてしまった。
おじさんが潰れるときの音と、肉の破片がはみ出している光景がリアルで、起きたあとしばらく、ああ自分は人が死ぬところを見てしまった、と考えるでもなく思っていた。





2014年4月12日

午後一で嫌な気分。
知らねえよ。
もうどうでもいい。




2014年2月8日

この前の日曜日、夕飯を食べたあとテレビをつけたら「鍵殿棒のメソッド」がやっていた。
もう9時40分を過ぎたあたりで、意気消沈。
夕方部屋に戻ってきてから、テーブルの上に置いてあった新聞を見ようかと思ったのに、なんとなく見なかった自分にがっかりだ。
あのとき新聞を開いていればこんなことにはならなかった。

いっそこのまま映画を見ないようにして、ツタヤで借りたほうがいいかな、とも思ったけれど、結局途中から最後まで見てしまった。
なんて痛快な映画なんだろう。映画をゆっくり見るのも(途中からだけれど)久しぶりだったというのもあるけれど、面白かったです。
本当の悪人が出てこない、というのと、ハッピーエンドなのがよかった。
出演者もいいし、「この映画作るの、楽しかっただろうなー。」なんて考えたりした。

記憶が戻らず、すこし苦しそうな香川さんが結構すきでした。
なんかちょっと怪しいんだけど、実は悪い人ではなくて、むしろ徹底して仕事をする、恋が不器用だけれど結局うまくいっちゃう感じがよかった。

あと主題歌は吉井さんだし、完璧だ。




2014年1月24日

病院の帰りに気分転換に散髪をし、当初の予定よりかなり短くなってしまい、むー、と思ったけれど、どうせすぐに伸びる、と思い直した。
自分は髪の毛が伸びるのがはやい。

担当してくれた美容師さんが、甘いものが好きらしく、どこそこのホットケーキがおいしい、とか、「パンケーキが流行っているけれどあれはどうかしている。甘くないもん。」とか言っていてすこしおかしかった。
それで、自分が今住んでいるところにもホットケーキ屋があり、そこにも行ったことがあるらしく、主婦ばかりで入り辛い、とか話した。
帰りに覗いてみると空いていたのでそのお店に寄って、猛烈に空腹だったので、これは今日ならいけるんじゃないか、と、ホットケーキ2枚と紅茶を注文した。
トッピングにバニラアイスとリンゴジャムまで追加してしまい、なにせ、猛烈な空腹だったから仕方ない。
運ばれてきたホットケーキはいつもどおり大きくないサイズなので、2枚重ねてナイフでフカフカ切り刻んだそばから食べまくった。
どんどん食べられる。これは余裕でいけると思ったら、なんと残り2切れでとてつもない満腹感に襲われ、そこからはもう戦いだった。
ホットケーキ2切れと残り僅かなバニラアイスとリンゴジャム。
ここで止まったら絶対食べ切れないと思い、休むことなく口に運んだ。
猛烈な胃もたれ。
でも美味しかったので平気です。


得意の何でもない話でした。




2014年1月23日




1月23日だ。



2014年1月21日

いつもより丁寧に部屋の掃除をしたり料理をしたりコーヒーを入れたりした。

そしてそれが、傷ついたこと、動揺していることを紛らわす、隠すためだということに自分で気がついている。



2014年1月15日




去年、道を歩いていて見つけた古本屋で買った本。
雑誌の方は10年以上前のもので、これらの発売当初、買おうかどうか迷って結局買わなかったものだった。
今「ケイゾク」にはまっているし(BD-BOXも買ってしまった)、偶然見つけられてラッキーだった。
チバユウスケや中村達也は鬼みたいな顔をしていていいと思います。
この絵本は自分が子供のころ同じものを持っていた。
サンタクロースがいろんな動物たちの家を回り、窓からプレゼントを放り込むのだけれど、住んでいる動物の種類を勘違いしてちょっと的外れなプレゼントを贈ってしまうものの、それぞれの動物たちはその的外れなプレゼントをうまいこと使いこなす。というお話。
各ページには切り抜きがあって、色んな仕掛けがある。
子供のころ好きだった絵本。




2014年1月11日

作品のページにすこし追加しました。

おととい帰り道の途中、横断歩道で信号待ちをしていたら、雪が降ってきました。
降るというより、舞うというかんじで、すこしロマンチックでした。
そこに居た知らない女性も自分と同じように空を見上げていました。
コートに付いた雪は、しばらく解けないままでした。



日記を更新しようと思ったけど、とりたてて書くこともないので、思い出話。

一年くらい前、くるりが参加するライブに友達が誘ってくれて、風邪引いていたけれど行った。
そのすこし前とても嫌なことがあって、その出来事にくるりの「春風」という歌が関わっていて、大好きだったその曲が、その嫌な思い出の曲となってしまっていた。
それからは「春風」を聴くことができず、そんなくだらないことのために聴けなくなってしまったことが残念だった。

ライブが始まる前、喫茶店で友達にその話(嫌なことも含めて)をして、すこしスッキリした。
くるりのライブは一年ぶりだったし、ステージが暗くなってくるりが(特に髪形が変な岸田さんが)出てきたときには全部忘れていた。

くるりは立て続けに演奏して、その数曲め、岸田さんがアコースティックギターに持ち替えてイントロを弾こうとしたとき、ふと「あ、来る。」と思った。
次の瞬間岸田さんが弾き始めたメロディは、「春風」だった。
自分は本当に、本当に嬉しかった。
嫌な思い出の曲となってしまった「春風」を、くるりがまた自分に取り戻してくれたように思った。
「春風」を取り戻した。
自分はもう数えきれないくらいくるりのライブに行ったけれど、くるりが「春風」を演奏した記憶はなくて、だから尚更、このタイミングで聴くことができて、とても嬉しかった。


写真はこのライブのときのものではなくて、痩せていたころの岸田さん。




2014年1月6日

明けましておめでとうございます。
新年はNHKの2355で迎えました。
ちゃんと、年越しの瞬間はジャンプをしました。


今年は、いままでよりもうすこしまめにこの日記を更新したいと思います。
あとは健康で笑っていられたらそれでいいです。