2016年12月31日



さよなら2016年。

今年は北海道に3回行けました。
札幌に居る彼女にも会えて、笑いすぎてまた顔が筋肉痛になりました。
写真整理が追いつきません。

オランダ、チェコ、ウィーンの写真もまだ載せてないし、日記はスーパースロー更新です。
ホームページの「旅行NIKKI」の鳥アイコンは、sleepy.abの成山剛さんに描いてもらったものです。
ありがたい。
描いてもらったとき、「鳥じゃなくてアリクイみたいになっちゃった。」と言ってましたな。

あとは、なんだ。
今年も色々ありました。

あ、
今年最後のミッションは、
「紅白に出るTHE YELLOW MONKEYを観る。」
でした。
ミッション、コンプリート。
JAMよかった。
小学生の頃から好きだったイエモンを、まさか紅白で観られる日が来るとは。
年齢を重ねた今聴くと、歌詞に込められた想いが分かるというか。

蕎麦好きなのに蕎麦アレルギーってことで、年越しうどん。
今年もあと数分。
今夜は映画を観倒すぞ。

写真はさっき撮ったやつ。
ふと外を見たら、団地の屋根の上に細い三日月が出ていました。
ものの数分で向こう側に消えてしまった。
左上にあるのは北極星かな。






2016年12月18日





いつもの、何もない海。
やっと来られた。
いつか、一緒に見よう。

知らない鳥。
カモメは、近づこうとすると、そろりそろりと離れて行く。




2016年12月15日



映画「スポットライト 世紀のスクープ」。
アメリカの新聞『The Boston Globe』の記者たちがカトリック教会の醜聞を暴く実話を基にした作品。
カトリック信者が多いボストンで、何十人にも及ぶ神父による児童への性的虐待、更にそれを隠蔽する司教や教会、司法の存在を暴露する新聞記者の姿を描いている。




事件は日常的に起こっているのに、詳らかにならないのはなぜか。
何世紀にもわたる、「教会」という絶大な力を持つ組織の隠蔽力の強さ。

映画のなかでは、被害者の証言という形で虐待の事実が語られ、具体的な映像の描写はない。
それゆえ、そのおぞましい光景は映画を観ている者それぞれの頭のなかに想像として描かれることになり、変態神父の存在に反吐が出る。

この映画を観終わったあとの最初の感想は、
人間てやっぱりろくでもねえな、だった。

ただ、ひとつひとつ、途方もない真実への道を一歩一歩進んでゆく記者たちの姿は、感服するというか。
これまでも、そしてこれからも、教会にその深い罪を償わせることはおそらくできないのかも知れない。
しかし、見て見ぬふりをされ、闇に隠され続けた真実を光りの下に引きずり出した記者達のその行為は、とても眩いものだった。


編集長を演じたリーヴ・シュレイバーが特によかった。
信念を持った男を静かに熱演している。




2016年12月11日

これを知らない人はおるまいな。
THEE MICHELLE GUN ELEPHANT、伝説の夜。




昔々、ロシアにt.A.T.uというユニットがあってだな。
あとは割愛。
知らない者は早送りせず見るべし。

とにかくこの夜のMステは伝説となった。
当時大学生だった自分は、先輩からこの日のビデオを借りて擦り切れるほど(人のなのに)繰り返し観ました。


口パクや音源バックに出演している人間には何もできない。
この日の生バンドはミッシェルだけ。
白羽の矢が立った。
楽器とアンプがあれば、どこでもステージになるという、 バンドならではの対応力というか。
しびれる。

結局、t.A.T.uは歌をうたうよりも最高な演出をしてくれたということになる。
チバも楽しそう。
それまで見たMステの中で、タモリのテンションが最も高い回だったと思う。




2016年12月10日



冬になると、また聴きたくなる曲。
チバ、やっぱりいいな。
かっこよすぎだろ(鬼みたいな顔もよろしい)。

はじめから終わりまで一気に駆け抜ける。
ともすれば単調な、
誰かの絵のようなメロディー。






冬の星に生まれたら、シャロンみたいになれたかな。
ときどき思うよ、ときどき。




2016年12月3日



夜、バイクで連れ出してもらいました。

クソ寒い(口が悪い)。
でも、冬の風になって街中を駆け抜けるのは、例えようがないほど心地よかった。
その疾走感、写真に撮りたかったけども、危ないのでやめました。
今日は空気が澄んでいて雲もなく、走りながらでも星がよく見えた。

後ろで掴まりながら、そうやって流れてゆく夜の景色を眺めて、
自分が失くしたものが分かった気がして、涙が溢れた。


バイク、旧車はやっぱりクソかっこいいな(口が悪い) 。




2016年12月2日

身体も精神もくたびれた。
このままでは心が摩れてしまうので、
なんかこう、「いい映画を観よう。」と思い立ち、
部屋で「学校 II」を観た。

めっちゃ泣いた。
ぐずぐずである。

もう何度観たか分からない映画。
それでも良いって、すごいな。
もう20年前の作品なのか。

俺、もっと馬鹿だった方がよかったな。
佑也の方がいいよ、自分が馬鹿だって分かんないんだから。 
みんなが俺のこと馬鹿にしてんのが分かんだよ、先生。

高志が吐き出した、正直で、諦めにも似た、胸に抱え込んでいた気持ち。
本当は良くないことだと分かりつつ、先生に投げかけてしまった言葉。
自分ではどうしようもない、悔しさと悲しみ。
あのラーメン屋のシーンは、ほんとに辛い。
胸が詰まり、言葉にならない。


舞台は高等養護学校。
西田敏行演じる竜先生のクラスに入学してきた高志たち。
さまざまな障害を抱える彼らが卒業するまでの3年間を描いている。
差別、偏見、心ない言葉。
世間に確かに存在するそれらの描写もある。

その中で、
決められた明確な答えがない教育の現場で、
ひとりひとりの生徒と向き合い、迷い、寄り添う教師達。
ふと、人と人とは、「導く」とか「与える」とか、
そういうことではないんだな、と思った。

西田敏行をはじめ、脇を固める永瀬正敏、いしだあゆみ、吉岡秀隆が、それぞれの役を、心のひだを優しく撫でるように丁寧に演じている。




予告編も、見応えがある。
※予告の埋め込みができないので、クリックするとYouTubeに飛びます


2016年11月5日

この絵本を読むと、心が安らぐ。

ルポ氏が失った記憶。
生きている間に、向こう側へ橋を架けられるのか。
温かく、淋しい。






あの人の世界に通じるものがあると、思った時期もありました。
もう無くなった、決して元に戻らない感覚。




2016年11月4日

へとへと。
今夜はもう何もしない。

おやすむ。




2016年10月31日




麓郷の森でIさんからもらった、オオウバユリの種。
とても薄くて、周りが透けている。




2016年10月30日

ふと、
なぜ自分がここに居るのか分からなくなって、
涙が出る。




2016年10月28日


ここに居るのは、間違いかもしれない。




2016年10月24日



岬から。




2016年10月22日

鳥の羽みたいな雲。






2016年10月17日

誕生日、おめでとうございます。
また森のなかでお話ししよう。

ちょうど満月の夜だったから、そんな絵を。




次の嵐を用意している
preparing for the next storm
oil on canvas
45.5x53.0cm
2013



2016年10月8日

この前、北海道に行ったとき。
富良野駅前ふらふら歩く。
なんとなく撮りたくなった、三角屋根と月の灯り。



次の日、札幌で泊まるホテル近くふらふら散歩。
よさそうなカフェがあるなと思って見てみたら、そこがト・オン・カフェだった。
セザンヌセット、激うまし。
グレープフルーツとバニラアイスとアップルパイのやつ。
しかもずっと気になっていた鈴木美絵さんの個展がやっている最中で、ちょうど観ることができた。
すごい偶然、重なるものですね。



しかもト・オン・カフェには、sleepy.ab 成山さんが参加するイベントのDMも置いてあった。
これまたすごい偶然。
ト・オン・カフェはとても素敵なところだった。
オフィス街(?)に突如出現する。
窓も大きくて素晴らしい。

また行きたい。
次回は、あの子を連れて行こう。





2016年10月5日

ジェシー・アイゼンバーグも誕生日。




2016年9月29日



今夜も、映画の話。
「マイ・ルーム」(1996年、原題:MARVIN'S ROOM)。

少年から大人になるちょうど狭間、その時期独特の不安定さを抱えるハンクを、レオナルド・ディカプリオが繊細に演じている。
もうじき18歳になるハンクは「自分はもう大人だ」と思っているけれど、その考え方や言動には子供っぽさが残り、手に負えない部分が多い。
明け方に置き手紙を残して家出したかと思えば、昼間にはケロッと帰ってきたり。
口を開けば母親と喧嘩をし、反抗的で、ついには自分たちの家に放火して施設送りに。

後先よく考えず、心の赴くままに行動してしまう。
危ういほどに純粋で、でも、本当はやさしい心を持っている。


物語の中心は、長年にわたり音信不通だった姉妹と、このハンクにある。
この姉妹を演じているのが、ダイアン・キートンとメリル・ストリープ。

責任感の強いベッシー(キートン)とその反抗的な妹リー(ストリープ)は、もう20年もの間絶縁状態。
長年にわたり寝たきりで認知症の父親をひとりで介護しているベッシーはある日、自分が白血病に冒されていると宣告を受ける。
姉が助かるには骨髄移植しかないとの知らせを受けた妹リーは、問題児のハンクら息子2人を連れて20年ぶりに実家に戻る。
すぐに打ち解けたかに思えたものの、長い間抱えてきたお互いへの複雑な感情による溝は簡単には埋まらない。
でも、時間をかけてすこしずつ歩み寄ることで、お互いの存在の大きさ、家族が背負ってきたものの大切さを見つめ直していく。

介護の問題、姉妹の確執、白血病といった重いテーマを扱いながら、全体にユーモアが散りばめられていて、どこか清々しささえ憶える映画。






ハンクと伯母のベッシーが海に行くシーン。
停止線の鎖を突っ切り、波打ち際を猛スピードで車で駆けて行く。
介護の大変さ、「家族」というもののどうしようもなさ 、身体を蝕む病のこと。
ベッシーもハンクもそんなことはきっと忘れていて、ふたりはただ大笑いする。
この作品を象徴するような場面で、観ている方も思わず笑ってしまう。




2016年9月24日



映画「オーバー・フェンス」を観た。

他人へというより、己への感情に焦点が当てられていて、それがなんだか新鮮だった。
登場人物たちが抱える、どうしようもない自分への怒りや情けなさ。
それって、誰もがみんな持っているのかな、と思った。
うまく生きているようにみえる人でも、そういうものって抱えているのかな。

オダギリジョーは泣く演技がいいですね。
蒼井優が演じる、超絶めんどくせえ女がよかった。
めんどくせえんだけど、自分もあんな風に生きられたら、と羨ましくなるほど正直で、なんてったって、笑顔がいい女だった。


今日から自分が変われるかも知れないって思ったら、
もう死んだみたいに生きなくてもいいって思ったのに。


人間として壊れかけた、一組の男女。
平凡で退屈なそれぞれの毎日を淡々と描きながら、ふと心動かされる一瞬の煌めきを、日常のなかに昇華させてゆく。






2016年9月23日

もっとまじめに、生きなくちゃいけない。

器用にとか、
上手にとかじゃなく、

まじめに。




2016年9月20日

怒りや苛立ちも憶えなくなったときが、忘れられたときなのだろう。
そのとき本当の意味で、解放されたと言えるのだろう。




2016年9月15日

焼かれた骨はすかすかで、ほろほろと崩れていった。
骨壺に入れる時の、あの独特の温度。




2016年9月1日

映画のテーマは「蘇る」ということ。
人生に絶望しても、人はやり直す。
それは誰にでも経験があること。
傷を癒して、また失敗する。
そしてまたやり直す。
植物も、季節に応じて何度も芽吹く。
でも根の部分は変わらない。
この映画で描くのはそこだ。
何度も蘇る男の話だ。
アレハンドロ・G・イニャリトゥの言葉


レヴェナント:蘇えりし者
ヒュー・グラスの物語。
アメリカのフロンティア時代、狩猟をして毛皮を採取するハンターチームにガイドとして息子と一緒に同行していたグラス。
遠征していたチームが砦へ戻る途中、見回りをしていた森のなかで、グラスはグリズリーに襲われる。
一命を取り留めたものの自力で動くこともできず、即席の担架にのせられ仲間の手によって砦までの道を運ばれる。
しかし、極寒の山越えに自分たちの命の危険も感じること、またグラスは瀕死でもあることから、チームの隊長は特別手当を支給する代わりに「死ぬまで見届け、埋葬する者」を募り、グラスを見放してしまう。
そこに息子ホークと、グラスを慕うブリジャー(彼らは金はいらないと言った)がまず名乗りを挙げ、金のためにとフィッツジェラルドが最後に加わった。
チームと分かれ、林のなかに留まりグラスに付き添う3人。
長く保たないと予想していたグラスがなかなか死なないため、徐々に苛立つフィッツジェラルド。
しびれを切らして、「生にしがみつくな。」とグラスに襲いかかっているところをホークに見つかってしまい、ホークを刺し殺してしまう。
それを自由の利かない身体のまま、ただ見ているしかなかったグラス。
その後フィッツジェラルドはブリジャーをうまく騙してグラスを見捨て、砦を目指して去ってしまう。
極寒の大地、失うものは自分の命だけとなったグラスは地面を這って、300km以上離れた砦を目指し、フィッツジェラルドのあとを追う。


——


今年4月の映画公開時に初めて観たとき、これは人生で何度も観るタイプの作品ではないと思った。
それくらい特別な作品だったし、経験だった。
でも結局その素晴らしさに捕われて、劇場で3回観てしまった。
Blu-rayの発売が告知されるとすぐに予約して、手元に届くまで2ヶ月、指折り数えて待っていた。
それが先週末やっと届いて、ほぼ毎日観ている。






文字通り、破けた布のように「穴だらけ」になり、それを黒い糸で縫い合わされた身体。
傷の痛みに追い打ちをかけるように息子を失い、心も引き裂かれる。


「息子は俺のすべてだった。それを奴が永遠に奪った。」


瀕死の傷を負い、自分のすべてだった息子が殺されたとき、絶望の果てにグラスに残ったのは自分の命だけ。
「死」に身体半分を突っ込んだ状態から蘇ってくるグラス。
ほぼ消えかけている命を奮い立たせて、一歩一歩前進して行く。
そこにほとんど言葉はなく、にも関わらず多くを語りかけるレオナルド・ディカプリオの演技に圧巻してしまう。
こんなにいい俳優だったんだなあ、としみじみ思う。


これは観ないと分からない。
絶対に。
単なる復讐劇ではなく、ひとりの人間の命の物語。
命をつなぐのもまた別の命。
生きるために命を繋いで行く。
人間が動物の一種であることを意識せざるをえない映像が、迫ってくる。
自然光だけで撮影された映像の美しさと、時に残酷なまでに感じる力強さ。
自分が今まで観たどの映画にも類似しない作品だった。


息子の仇を討つ機会を手放したとき、グラスの復讐は終わったのだと思う。
その決断に至るまでにあるドラマ。
因果応報も描かれている。
作品の冒頭、フィッツジェラルドが蹴飛ばした相手は、ポワカの父親だったこと。
グラスが途中で助けた女はポワカだったこと。
そこから繋がるラストシーン。


序盤、グラスが息子ホークを叱るシーンは込み上げてくるものがある。
ホークは白人であるグラスと原住民ポーニー族の女性との間に生まれた子。
現代よりも差別が悪とされていなかった時代。
何かと突っかかってくるフィッツジェラルドの言葉に、息子以上に悔しい思いをしているはずなのに、ホークを守るためにグラスは語気を荒げる。
「白人はお前の言葉なんか聞かない。肌の色だけ見る。透明になって口をつぐめ。」
大人になるまで、ただじっと耐えるんだ。と言うように。
ここでもディカプリオの演技に胸が詰まる。
ちっとも大袈裟でなく、それでいて痛いほど伝わってくる。
子供を想う父親の気持ちを、あそこまで表現できるなんて。


この作品で、ディカプリオはアカデミー賞のオスカーを受賞した。
文句無しの主演男優賞。
授賞式の映像を見ていると、名前が呼ばれたときの会場全体がひとつになって祝福する様子には感動してしまう。
そして、このときのディカプリオのスピーチがまたとても良かった。
自分以外の人に賞賛を送り続け、この作品が描いているもう一面から見たテーマ「自然と人間」について言及した。
ステージの去り方も震えるほど格好いい(自分もこんな男になりたい)。




2016年8月26日

名前を呼ばれて、うれしかった。
照れた顔を見られたくなくて、咄嗟に口を結んでしまった(それはきっと怖い顔になっていた)。




2016年8月14日

秋まで待てなくて、海に行った。
日が落ちる少し前だったので海水浴客ももう居なく、静かだった。

自分がよく行く海は砂浜が広い。
なんとなく、水に触れたくなって、裸足になった。
波打ち際まで歩いていくときの感触。
水を含んだ砂は柔らかく、分厚い絨毯の上を歩いているようだった。
「ズボンの裾、もう少しまくった方がいいかな。」とぼんやり足元を見ていたら波が来てしまいズボンまで濡れてしまった。
まあいいか、とそのままそこに立ち尽くして、どのくらいの間だったか、ぼーっとしていた。
今日は少し波が高くて、何度も何度も足元までやって来た。
海に入ったのは、前回がいつだったのか思い出せないほど遠い昔。
想像していたより水は温かく、水の中に立ちながら写真を撮ったりした。

生温かい風に混じって、ときどき、冷たい風が吹いていた。
秋がくるまで、あとすこしだ。

海はいい。
嬉しさも、哀しさもない。

どこを見るでもなくただ眺めて、波の音を聴いて。
何も考えなかった。
ここに来ると、過去のことも未来のことも、何も考えずにすむ。
またすぐ現実に戻っていくのだけど、ここにいる間は自由になれる。

ここは海と反対の方角に日が沈む。
小高い砂浜を登るとまん丸の夕日が見えた。
完全な姿の夕日を見たのも、いつぶりだろうか。
沈んで消えていくのを見届けて、裸足のまま車に戻った。
車に戻ると同時に、現実にも戻っていった。




















2016年8月11日

映画「Laundry」を久しぶりに見返した。
淋しさを知らなかったテルは、水絵と出会い、彼女を失うことで淋しさを知る。
淋しさのなかに取り残されていた水絵は、テルと出会い、自分の役割を見出す。
いびつで、苦しい、やさしい物語。


彼は、癒してくれない。
でも、洗い流してくれる。


傷口はふさがっても、傷跡は消えない。
でも、その記憶の汚れを洗い流してくれるように、テルはそこに居る。
おとぎ話のようなのに、日々の生活の匂いが、ちゃんとある。
白い鳩が飛び立つシーンは、清々しい。
ふたりのこれからを祝福するように、朝日に飛び交う。






2016年7月24日



そのうち、一緒に見ることになるだろう。




2016年7月23日

ただいまとか、おやすみとか、
言える相手がいることは、
とても幸福なことです。


自分も、幸福になりたい。


お日様の下を歩くような、
そんな恋とかしてみたかったなと、
思いました。




2016年7月22日

明け方見た夢に、ケビン・ベーコンが出てきた。
ふたりで、いけないことしていた。




2016年7月19日



背中にのせて、どこかへ連れて行って。




2016年7月16日

魂が身体を抜け出して、空中から見ているようだった。
星が流れるなかを、漂うように。

すこしライトな印象だった。
それでも「ホログラム」は、こみ上げてくるものがあった。




2016年7月15日



はやく冬になれ。




2016年7月9日

絵を描くというのは、自分と向き合うことなので、とてもしんどい。
自分にとっては「くるしい」がほとんどで、「たのしい」はほんの一瞬しかない。
描き終わるころにはいつもへとへとで、こんなこと続けていたら、おかしくなって死んでしまうんじゃないかと思う。
ド・スタールもロスコもそうやって死んだ。

ではなぜ低空飛行でも続けているのかというと、その一瞬の「たのしい」があるからだと思う。
辞める理由はたくさんあっても、続ける理由はほんの少ししかない。

絵を描くたびに、毎回、自分の不格好さを思い知らされて、泣きたくなる(涙が出ることがある)。
でもそれと同時に、吹けば飛んで消えてしまいそうな自分の理想とか希望を映し出せるのも、絵しかない。


「絵のなかの人、向こうに誰も居ないと絶望しているし、誰か居てほしいと希望を持っている。」





次の嵐を用意している
"preparing for the next storm"
Oil on canvas
91.0x73.0cm
2015




2016年7月8日

自分とは違う。
自分は彼女にはなれないし、
自分は彼にもなれない。

この不格好で薄汚いまま、
自分は自分でしかない。

何かいい方法はないかと、
いろいろ試してみたけれど、
うまく生きていられない。




2016年7月7日

もう誰も見ていない。




2016年7月6日

また、くらいくらいところに。




2016年6月30日

言葉にできないから絵を描いているのだが、
絵を続けていると、ことごとく言葉を求められる。




2016年6月29日

知っている人や場所が、次々に無くなってゆく。
自分は長いあいだ同じ場所にいて、いつも見送る側に取り残される。




2016年6月17日

2年経ちました。
本当は兄だった人、まだここを見てくれているだろうか。




空港を使うたびに、姿を探してしまう。
駅のホームにいるかもしれないと、姿を探してしまう。
誰かの歌みたいに。




2016年6月13日

絵も憶えていてくれたことに驚いて、
それ以上に照れてしまって、
まともに話せなかった。




2016年6月11日

何年か前に映画館で見つけたフライヤーを、今もたいせつにとってある。
気がついたら上映が終わっていて、レンタル屋で借りるのではなくて、DVDを買った。
これはきっと、これから先も何度も観ていく映画だと思ったから。

冬のあいだ閉鎖されている遊園地で暮らす男と、牧場で働く冬沙子。
ふとしたことで出会って、心を通わせていく。

やっと見つけたと思った安らぎの時間が、突然消えてしまう。
「僕は確かに、君の一瞬にいた。」
その言葉は届かない。
その哀しさ。
まるで、雪の白さと厳しい寒さが、それを浄化していくように見える。




この映画の舞台となった由仁町に、1年半前に行ったことがある。
札幌から電車とバスを乗り継いで、着いたときにはすでに夜だった。
映画のなかに出てくる食堂は実在の店で、鍋焼きうどんを食べた。
痛いくらいの寒さで冷えた身体が、芯から温まった。
食堂のおばさんが撮影中のことや渡部さんのことをいろいろ話してくれた。

帰りの由仁駅で、まるで映画の中の男と同じように電車を待っているとき、何とも言えない気持ちになったのを憶えている。


最近また見返していて、いい映画だなと思う。
イヤホンで観ないと、台詞はほとんど聞き取れない。
単調だけど丁寧に生活している冬沙子に、自分も恋をしてしまいそうになる。
今日も来るかな、と無意識のうちに彼女を待つようになる主人公の男に自分を重ね合わせて、切なくなる。




2016年5月17日

一番新しく描いた絵は、そのときの自分の状態と反して、とても静かで穏やかな絵になりました。

自分が心がけていることに、「深刻でない暗さ」というのがあります。
淋しさとか、ひとりぼっちでいる感覚とか、それも肯定するような絵でありたいのです。

(毎回コメントを求められる度に言っていますが、)海の音を聞いていると、焚き火の炎を見ていると心が落ち着くように、自分の絵もそういう存在に近づけたらいいなと思います。

秋葉シスイ|sisui AKIBA




次の嵐を用意している
"preparing for the next storm"
Oil on canvas
112.0x162.0cm
2016




2016年5月14日

2日目 オランダ

「旅行 NIKKI」と題してやっています。
スーパースロー更新です。
このボリュームがいつまで続くのか。
年内には終わらせたい、な。

〜〜

3月19日(土)
ベッドはちょうどいい固さで枕はふかふか、よく眠れました。
オランダと日本の時差は8時間です(日本が8時間進んでいる)。
もともと体内時計がめちゃくちゃなので、このくらいの時差はたいしたことなかったです。
旅の後半はきっと疲れがたまって早く起きられないと思い、今のうちに早朝散歩をしておこうと思い立ち、朝食前に20分くらい散歩に出掛けました。
ホテルのすぐそばの広場では朝市の準備をしていました。








昨日の夕方歩いた運河沿いの道を途中まで行き、そこからなんとなく惹かれる路地に入ったりしました。
朝7時半くらい。
曇天。
土曜日だからかまだお店はほとんど開いておらず、歩く人も疎ら、道路にもほとんど車や自転車は走っていません。
昨日の日記の最後に書いたドム塔の鐘が15分おきに鳴るので、便利でした(15分経ったからそろそろホテル戻ろう、みたいな)。




バス長い


朝食


朝食は最低限のメニューが揃ったホットビュッフェです。
パンもハムもチーズも5、6種類くらいずつありました。
美味しかったです。
何よりこのホテルで嬉しかったのは、サラダがあることでした(写真撮ってない)。
しかも新鮮なトマトやパプリカがどっさり茎付きのまま大きなボウルに入っていて、そこにあるナイフで好きにもいでカットして食べられるという。
毎朝トマト食べました。
ここに温かいスープがあったら、最高だ!
あと、食卓に塩と胡椒がセットで置いてあるのですが、この塩が美味しかったです。
サラサラのではなくて、胡椒みたいにガリガリ削るやつ。

ヨーロッパでは、使ったタオルはバスタブのなかに放り投げておくか、床にバサッと置いておかないと、交換してくれないことがあるようです。
チップを一応€1.00置いて出掛けました。

バスでデン・ハーグという街へ。
途中、鳥をたくさん見ました。
街なかで見るにしては種類が多い気がします。
カラスや白鳥、鳩にカモメ。
普通に公園にいる。
渡り鳥の群れも見ました。


白いのは鳥です




見えづらいけれども渡り鳥の群れが飛んでいる


デン・ハーグの駅前にある公園、ここにも鳥がたくさん


好きなカモメも居た、根室と同じで丸い大きい


さて今日は一日美術館巡りです。
まず、デン・ハーグにあるマウリッツハイス美術館へ行きました。


Mauritshuis




数年前に改築され、広々としたロビー


フェルメール、レンブラントのコレクションで知られる美術館です。
彼らのかの絵があるんだ、と思うと、そわそわしました。

この美術館はそんなに大きくないので、展示数も膨大ではありません。
集中して観やすいと思います。
しかし悲しきかな、この日は時間に余裕がありませんでした。
部屋を順繰りに見ていたら、肝心のフェルメールの部屋までなかなか辿りつけず、先生が、「秋葉、こっち。」と呼びにきてくれました。
フェルメールの「デルフトの眺望」を観て、「この雲、どうやって描いてるの?」と聞かれたりしました。

「真珠の耳飾りの少女」は焦げ茶の木製の額に入れられ、深い緑の壁にひっそりと掛けられていました。
ひっそりというのは自分が感じた印象で、実際は他の絵と一緒に並んでいます。
そして美術館の一番の売りであるこの作品の前での人々の滞在時間はもっとも長いでしょう。
それなのに、自分の他にもたくさん人がいるのに、そこだけ音がないというか。
自分と絵だけになったような感覚に一瞬なった。

同じくフェルメールの「デルフトの眺望」は、よく描けてるなあ、くらいにしか思わなかったのですが、この後のバスのなかで強い印象を残すことになる。

レンブラントの「テュルプ博士の解剖学講義」は、ここで実物を観るまで、博士が取り出しているのは内蔵だと思っていたのが実は手の筋肉だった、ということが分かって衝撃でした。
いかに図録などの図版をいい加減に見ているかという。
つまんでいるのは手の筋肉でした!
先生も、「今まで腹から出してるのかと思ってたよ。」と言っていた。
先生もそうだったのか、と思い、すこしホッとしました。
あと、登場する男達の目線が全員違う(ひとりの男だけこっちを見ている)、というのが奇妙というか、気持ち悪さみたいなのを感じました。

他にも400年、500年前の絵がごろごろ掛かっています。
自分は絵を観るとき、芸術的な観点にはあまり興味がなく、500年前にこの絵が描かれたときの人々に想いを馳せてしまいます。
何を見て、誰を想い、何をたいせつにして暮らしていたのだろう、とか。

フェルメールの絵のなかの少女は、いわゆる肖像画とはすこし違うものに見えました。
生き生きとしている。
瑞々しさ。
肖像画は長時間のポーズの末描かれたものが多いですが、あの絵は、一瞬を切り取って閉じ込めているような、なんというか、写真に近いものがある。
あのすこし開いた唇は、何か言おうとしているのか、それとも歌っているのか。
何に想いを馳せて、彼はこの絵を描いたのかな、と考えていました。

余談ですが、
何を思ったか、自分はここでは展示の写真を撮らなかった。
ミュージアムショップで買い物しているとき、先生が、「あの絵(フェルメールの「真珠の耳飾り〜」)の前で記念撮影しているのは結構貴重なんだよ。日本じゃ撮れねえから。」と言っていて、「確かに!!!」と思った。
日本は大抵、撮影禁止ですからね。
しかし後悔先に立たず、もう出発の時間が迫っていたので、写真は撮れず仕舞いでした。


ロゴがいい


後ろ髪引かれる思いで次の美術館へ。
デン・ハーグ市立美術館。


Gemeentemuseum Den Haag




中庭


オランダの建築家H.P.ベルラーヘの設計です。
ここはとんでもないところでした。
何がとんでもないって、構造がとても複雑(と思ったのは自分だけでしょうか)。
自分が一番苦手とするタイプの構造でした。
前後左右対称でどこに居るのか分からなくなる。
それに加えて作品数が多いのもあるし、ここで既に頭がパンクしそうになっています。
この建物の居心地の悪さにもう写真撮るのとかやめようかな、と挫けそうになりました(撮ったけど)。


企画展1


企画展2
この人の絵、結構すきでした
クリムトの絵から華やかさを除いてもっと不気味にした感じ
呪術とか魔女っぽさがある


クリムト「ユディト」はウィーンにあると思っていた


半泣きで進む。
それでもいい絵がたくさんありました。
クリムト、シーレ、もさることながら、何よりベーコン!
ベーコンが観られると思わなかったから、一気に元気が戻ってきました。
めげずに回っていてよかった。
さっきのフェルメールのことがあり、ここぞとばかりに写真を撮りました。
ベーコンは、自分の絵の額装にも注文を出していました(3年前、東京国立近代美術館で保坂さんが企画したベーコン展で知った)。
額は金色にすること、そして敢えて反射するガラスを入れること。
だからここでもその額装でした。
観る者が映り込んでしまう。
絵を観るには不向きであるように思えますが、ベーコンはそれを望んだ。
死んだ後もこうやって意思を尊重されているのはいいなと思いました。
ベーコンの絵と自分のツーショットになりました。


真ん中のオブジェはベーコンじゃないよ






そしてモンドリアン。
さすがオランダ出身ということもあり、どの美術館でも作品を観ました。
モンドリアンの初期の風景画の実物を観たのは初めてでした。
あとこの美術館には遺作となった「ビクトリーブキウギ」がありました。


ピエト・モンドリアン「ビクトリーブキウギ」


モンドリアンの初期の風景画


この青い風景画がすきでした


バスで移動中。
もこもこの羊が草を食んでいたり、ぺたんと座っていたり、馬がいたりと、のどかな風景が流れていきました。






途中、ほんの束の間日が差すことがあり、雲の隙間から青空が見えました。
「青空、久しぶりに見た気がするなあ。」と思うのとほぼ同時にフェルメールの「デルフトの眺望」とリンクして思わず写真を撮った。
ああ、フェルメールもきっとこうやって空を見ていたんだなあと、とても感動したのです。
たぶん、この雲も、この雲の隙間の青空も、500年前と変わっていないんだ、と。
それって、すごいことではないでしょうか。
オランダでこの空を見られただけで、「来てよかった。」と思ってしまいました。

この車中でも、後ろに座っていた先生が、「秋葉、次の嵐は来そうですか。」と言っていました。
まさに、今自分が描いている絵と同じような景色で、「来ます。来ます。」と答えた。


写真では記録できない感情でした


本日最後、クレラー・ミュラー美術館。
エーデのオッテルロー村にあります。


Kröller Müller Museum




ゴッホ作品のコレクションで知られていますが、ルドン、ジャコメッティ、ブランクーシ、カルダー、ベン・ニコルソンなど、錚々たる作品が並んでいました(たぶん自分が興味なかっただけで、スゴい作品がもっとたくさんあった)。
ゴッホは特にすきなわけではないですが、やはりそこにあると、観てしまいます。
彼が狂気の作家なのか、自分には分からないけれど、「夜のカフェテラス」とかはゴッホと知らなくても綺麗だなあと思います。

彼の有名な絵がずらり。
それと一緒に、ゴッホスタイルになる前の人物画がすこし並んでいて、それが結構すきでした(撮った写真を観たらブレていた…ので、載せていません)。
高波が立っている砂浜にただ立っている女性の絵。
人物が着ている洋服の色がかろうじて分かるくらい色調が暗い。
明らかに人物が主役である絵なのに、その女性の顔は塗りつぶされていて、表情がない。
背景の海や洋服の描き方を見比べると、顔を描いた後にわざとぐちゃぐちゃに塗りつぶしたようです。
何の感情によって、ゴッホはそうしたのかな、とぼんやり思った。


すきな絵、これが観られるとは
オディロイ・ルドン「キュクロープス」


アルベルト・ジャコメッティ


ぶら下がっているのはアレクサンダー・カルダー


すきな作家、ベン・ニコルソン


ゴッホの作品だけを展示した部屋










地理的に、ひとりではまず行かないところだな、と思った。
美術館自体はこじんまりとしていて落ち着いて観られます。
敷地が広大で、野外彫刻もたくさんありました(これを全部観る方が大変かもしれない)。
庭園(野外彫刻)のみのチケットと美術館と庭園がセットになったチケットがあります。
先生は最初、「ゴッホ観ても仕方ないもん。」と言って、お目当ての野外彫刻だけ観ようとしていたのですが、「ここでしか観られない絵があるなら観ようかな。」と自分がぶつぶつ言っていると、「へいへい、観ますよ。」と、付き合ってくれました。
観てよかったです。
観なくてもいいかもしれないけれど、観てよかった。
ここも晴れていたら気持ちいいだろうなーという庭園でした(でも曇天でした)。


クリストのドラム缶の作品はテントで覆われてた
先生は、「あのテントもクリストがやったんじゃねえのかな。」と言っていた


オランダの建築家ヘリット・リートフェルト設計のパビリオン
1955年の国際彫刻展に出展され、
その後1965年にクレラー・ミュラー美術館に移築された


ジャン・デュビュッフェ
工事現場の階段みたいなのが置かれていて、
その上から眺めるようになっていた


マルタ・パンの作品の上で、
何か撮っている女の人を撮りました


名前の分からない鳥、かわいい


ユトレヒトに戻って、夕食は運河沿いのレストランに行きました。
「えっ」と思われるかもしれませんが、フライドポテトがめちゃくちゃ美味しかったです。
オランダはマヨネーズで食べるのが一般的だそうです。
あとはパスタとか肉料理とか食べた。
どれも美味しかった。
店の名前を忘れました。
猫が居た。


全然おいしそうに撮れなかったけれど、おいしかったです




一日に美術館3カ所はなかなかしんどいです。
日本でもまずそんなに行かない。
へとへとです。
頭の整理をする余裕も無く眠ってしまう。

おやすみなさい。