2016年3月17日

明日から、オランダとチェコとオーストリアに行ってきます。
どの国も初めてで、ヨーロッパに行くのも9年ぶりです(前回はドイツとイタリアだった、スイスは通過しただけ)。
大きいと思ってたスーツケースが、思ったより大きくなかったりしてすでにちょっと不安です。
が、根室で買ったエトピリカのシール貼ったから大丈夫、と思い込む。おまじない。




荷物は少なめにを心がけて。
sleepy.abの音楽は持っていく(一緒だと安心なんです)。




2016年3月10日


nocturne
Oil on canvas
14.0x18.0cm
2016


大学の先輩が亡くなりました。
なんとなく、いつかまた会うこともあるだろうと、漠然と思っていました。
亡くなったと聞いて、よく意味が分からなかった。
変な感じです。
人がこの世からいなくなるということは、どういうことでしょうか。

先輩は来週から個展を開催することになっていたようで、それは予定通り開催されるそうです。
会場の一角に、友人たちが描いた小さい絵を飾る一角を設けると連絡がありました。
自分はある時期、個人的にその先輩と過ごす時間があったので、できるなら自分の絵も送りたい、と思いました。
それでここ数日その絵を描いていました。

自分のいつもの風景のなかで女の子が3人、手を繋いで踊っています。
なぜ女の子なのか、3人なのか分からない。
最初から描くことが分かっていたみたいに、筆が進んでいった。

昨日完成しました。
そうだからか、今朝見た夢に先輩が出てきました。
何か話をした気がするのだけど、思い出せない。
昔みたいに笑っていた。

目が覚めて、ぼんやりしていました。
これが喪失感でしょうか。
すぐ会えそうな気がするのに、もう絶対に会えない。
声が聞こえることは、もうない。




2016年3月9日

繰り返し繰り返し見ています。
発売が待ち遠しいです。
手にとるのは、もっと後かもしれない。

やさしい歌声と、光りを散りばめたようなアニメーションがとても合っています。
暗い夜も、寒い雪も、天使の身体が散ってゆく淋しさも、どこか暖かい。

ボーダーを着たオオカミと、ピンクのセータを着た女の子。
初めて見たとき、自分に似ていると思った(と、おこがましいこと言ってみる)。




成山剛(sleepy.ab)/ 「ladifone」
MV Director / 外山光男




2016年3月5日

めまいが止まらない。
一時期のメニエール病の症状よりは軽いけれど、足下がずっとふかふかしているような感覚です。
これでは運転ができないので、困った。

帰り道によく通る緑道があって、桜の木が植わっています。
今日、陽が落ちたあと歩いているとき見上げてみると、芽吹いていました。
毎年この時期は、いつもなんだか憂鬱になります。
日に日に春に向かっていって、冬からどんどん遠ざかり、その終わりを感じる。
桜もあまりすきではなくて、なんか、怖いです。
美しいと思うけれど、すきなのとはすこし違います。




そんなこと考えながら夜の緑道を歩いていて、ホームページの更新をまた怠り気味だと気がつきました。
それと、そういえば今年でホームページを作ってから10年だな、とも気がつきました。
qpさんに憧れて、試行錯誤して作ってから10年たちました。
映像が流れたりしないし、専門の人から見たら間違いが多いかもしれませんが、愛着があり気に入っています。
自分が憧れたqpさんのホームページは今はリニューアルされて、当時のものとはだいぶ雰囲気が違います。
その当時は、なんというか、もうちょっと暗さがあった。
窓のない部屋を覗いているような感覚に似ていた。
でもそれが不快でないというか、閉塞感があるのにどこか心地良い。
文字情報もほとんどなく、qpさんの絵をクリックして淡々と眺めていく、という構造でした。
あれがもう見られないのは、ちょっと淋しいですね。


またいろいろ考えたり思い出したりしています。
今日はここまで。




2016年3月3日

ちょっとめまいがします。
ふかふかの上を歩いているような、へんな感じです。

今日はホットケーキを食べました。
人と会話をしない日が続いています。




ひとりの時間が長いと、色んなことを思い出してしまいます。
以前、「絵っていうのは、気分が上がっているときじゃないと、描けないものでしょう?」と言われたことを思い出しました。
そのとき自分は、「うん。そうだね。でも、自分にとって絵は苦しいことの方が多いのだけど、続けているのは、これくらいしかないから。」と、同調しているんだか反論しているんだかよく分からないような答えを返しました。

自分にとって絵は、苦しいことの方が多い。
楽しいのは、ほんの一瞬です。
ごくたまに、「これはとんでもない絵を描いてしまった。」と思えるときがあって、その一瞬があるから、続けているんだと思っていました。
でもこの前、絵の描き始め、真っ白なキャンバスに絵の具をのせた瞬間、うまく言えないけれど、「そう、この感じだ。」と思いました。
思ったというか、その感覚が駆け抜けた。
生きてきて続けているのは絵を描くことくらいなのは、「そう、この感じ」があるからなのかな、と思いました。
うまく伝えられない。

絵を描いていなければ、時間も経済も自由に使える。
絵を描いていなければ、もっと狭くて安い部屋で済む。
絵を描いていなければ、もっと健康的になれる。

「絵を辞める理由はいくらでもあるけれど、絵を続ける理由はほんのすこししかないんだよ。」
高校の美術の先生が言っていました。
自分はこの言葉が忘れられないし、その意味がよく分かります。
ずっとそれを感じている。
でも、続ける理由がほんのすこしある。
その理由が、力になっています。
絵のいいところは、自分が問題であると同時に、答えでもいられるところです。
誰が何と言おうとも、描き上げた絵が正解なんです。
ただ、ともすると独りよがりになってしまうので、自分の絵に厳しくなくてはならないです。
これはいい絵だと思っても、次の日の朝それを見て違和感があったなら、その絵は終わっていないんです。
この感覚は大事にしている。
「やり直しだ。」と、その夜また手を加えるのはとてもしんどいし、エネルギーを使います。
できれば見過ごしてこのまま完成ということにしてしまいたい、と思うこともあります。
でも、立ち向かわなくちゃならない。
それを見過ごすと、観た人にもすぐ分かってしまいます。
正解を導くのは、とてつもないエネルギーがいる。

あと、自分は恵まれています。
発表する機会を与えてもらっている。
これは、ひとりの力ではどうしようもできないところがある。
自分の絵を気に入ってくれる人と出会えたのは、そこで発表することを許されたからだと思っています。


なんでこんな話になったのだろう。
最近は、日記をよく更新しています。
ひとりの時間が長いから、頭のなかでいろいろ考えてしまうのかもしれません。




2016年3月2日

今日は大きなスーツケースを買いに行きました。
いま持っているのは小さくてキャスターも壊れてしまいましたが、高校のころ、本当は兄だった人と買いに行ったものなので、いまも捨てられないでいます。

今日のように、春の一歩手前のような陽射しの日は、sleepy.abの「paratroop」がよく合います(夜になると、「traveling fair」が合います)。
この「メロウ」は、イントロのメロディが、胸にぽつぽつと水滴が落ちてくるような感じがします。
もう会わないひとへ歌っているように聴こえます。
自分がsleepy.abを知ってから、2番目にすきになった歌。






2016年3月1日

(さっき書いた日記はすぐ消した。)

もう、そういうの、やめたんだ。
自分に暴力を振るうのは、やめた。
嫌なことは消えないし、ただ繰り返していくだけだし。

いいこと、わるいこと、いいこと、わるいこと。
いいこと、わるいこと、わるいこと、わるいこと、すこしいいこと。

すきな歌にもあるからさ。

悲しいとか悔しい気持ちを 繰り返してゆくのは
楽しいとか嬉しい気持ちを 眩しくするためかな
新しい僕たちの道は 苦しいから笑おうよ

苦しいから笑えるほどの余裕はないけれど、
たぶん大丈夫だからさ。